2005年 12月 14日
鬼無里村探訪 (7) 木流しの里 |
角川日本地名大辞典 20 長野県 角川日本地名大辞典編纂委員会/編
鬼無里<鬼無里村>の項
中世には裾花川上流の鬼無里盆地一帯を称し、近世に入って裾花川の左岸を鬼無里村、右岸を日影村に分けたものか。小字小鬼無里村が地名の発祥地。地名の由来は木流し村の略かとも言う(信濃国地字略考)。伝説では、昔当地に済んでいた鬼女を平惟盛が誅してから鬼無里と改称したと伝える(県町村誌)。うるし平遺跡から先土器時代の彫器が出土し、縄文時代の遺跡もある。
〔中世〕 戦国期に見える地名。水内郡のうち。山名としては、長禄2年7月15日書写の「戸隠山顕光寺流記」に「奉 常灯一灯、油料木那佐山一所」とあり、当地の一部が戸隠神社の常灯明料として寄進されていた。
長野を離れてしまったので、どうにも真実を探ろうとする気合が抜けてしまったのは否めないところです。というか、鬼無里村に行って「よし、これから長野市の図書館でいろいろ調べよう」と気合を入れたところに異動を食らってしまったので拍子抜けが本当のところです。蒲郡は、土地としては面白いのですが名前に興味を惹かれるわけでもなく、図書館には肝心の地域資料がないので調べる気も起きず。ブタベが三河地方に興味がないのが厄介です。東海道の宿場に関しては師が専門なんで、手を出す気にならず。
そんなこんなで、今回は総括といったところでしょうか。
これまであげた資料それぞれがそれなりに正しく、且つまた信頼性のあるものだとします。そうした中で検証に値する地名として考えられるのは
水無瀬(古代の呼び名? 貝殻等の出土物から古代の人がつけたのだろう。それにしても「みなせ」という言葉の響きは美しいですね)
鬼無里(中世・近世で一番多く使われている名。ただし、この名が示す“鬼”が一夜山の伝説を指すのか、紅葉の伝説を指すのかは不明。ただ、成立時期を考えると一夜山の伝説が真実に近い可能性が高い)
木流しの里(多分中世かそれ以前、村名というよりは村の説明に使われたような感じのする名前。大阪で言えば天下の台所、とか。今も昔も産業は林業か農業で、特に昔はそうであっただろう。切り出した木を裾花川で流し、松代、そして木曾川を通じて中京地区に流していくというのは想像しやすいことである。当時の台帳でも残っていれば分かりやすいが、そこまでは残っていないだろう)
木那佐(上の資料にある山名。当て字の確率が極めて高い。中世・近世期の資料は文字がはっきり分からなかったか、もしくは何らかの理由で違う漢字で当て字にすることが多いので不思議ではない。が…“木”の文字は妙に気になる? 神社への寄進文書だから“鬼”の字を嫌った…というのは出来すぎな話です。今上天皇の名前じゃないんですしね。ちなみに長禄年間は室町時代の1450年代後期のこと。応仁の乱が始まってしばらく経った時期です。)
以上のような感じになります。
なお、上記の資料はその後近世・近代と続くわけですが、慶長、、元禄、天保、明治とすべて資料は鬼無里と記されている模様。中世の終わりには完全に“鬼無里”と確定したみたいですね。でも、今に至るも“鬼無里山”って存在しないんですよね。さて、これはどういうことでしょう…。
流れとしては古代の水無瀬は確定だと思います。中世に入って、その産業から“木流しの里”という村の性格が固まると「みなせ」という響きと「きながしのさと」という言葉が組み合わさって「きなさ」という読み方をするようになったと思うのです。そのときにどんな漢字を当てたのは分かりませんが…「木那佐」ならなんとなくあっているような気もしませんか?木那佐山は特定の山を指すのではなく、盆地一帯を指す、というのは考えられうる話です。
さて、“きなさ”という地名は出来たものの、鬼の字は当てられていません。一夜山の伝説の真偽はともかく、地震のような地殻変動で一夜山の辺りがいきなり隆起して鬼無里盆地をふさいでしまったのが史実だとしたら多分このときに鬼の字を当てたのでしょう(鬼がなさったこと、という感じで。駄洒落に近いですけどね)。その後、紅葉伝説の元になった史実が発生し、鬼人がいなくなった村(貴人が殺された村?)として村の呼び名“きなさ”の響きに合わせて漢字を当て、「鬼無里村」という名前が確定していったのではないかと思います。
こうして、周りは討伐した鬼のいた村として、村内では殺されてしまった紅葉がいたことを偲び伝えるために、「鬼無里」という地名が今に至るまで定着していったと私は結論付けます。結局何が真実かは分からないままなんですけど、ある程度自分自身が納得できそうな答えは見つかったのでこの『鬼無里村探訪』を終わりにしたいと思います。
最後に鬼無里支所の人たちと、これまで引用してきた資料を編纂してきた先達に感謝いたします。これだけ情熱をもって歴史を調べられる土地に、まためぐり合える日を待ちながら。
『神話や伝承の価値は、それが事実か否かよりも、どれだけ多くの人がどれだけ長い間信じてきたかにある』―――塩野七生 『ローマ人の物語1 ローマは一日にして成らず』(31ページ辺りからの引用)
鬼無里<鬼無里村>の項
中世には裾花川上流の鬼無里盆地一帯を称し、近世に入って裾花川の左岸を鬼無里村、右岸を日影村に分けたものか。小字小鬼無里村が地名の発祥地。地名の由来は木流し村の略かとも言う(信濃国地字略考)。伝説では、昔当地に済んでいた鬼女を平惟盛が誅してから鬼無里と改称したと伝える(県町村誌)。うるし平遺跡から先土器時代の彫器が出土し、縄文時代の遺跡もある。
〔中世〕 戦国期に見える地名。水内郡のうち。山名としては、長禄2年7月15日書写の「戸隠山顕光寺流記」に「奉 常灯一灯、油料木那佐山一所」とあり、当地の一部が戸隠神社の常灯明料として寄進されていた。
長野を離れてしまったので、どうにも真実を探ろうとする気合が抜けてしまったのは否めないところです。というか、鬼無里村に行って「よし、これから長野市の図書館でいろいろ調べよう」と気合を入れたところに異動を食らってしまったので拍子抜けが本当のところです。蒲郡は、土地としては面白いのですが名前に興味を惹かれるわけでもなく、図書館には肝心の地域資料がないので調べる気も起きず。ブタベが三河地方に興味がないのが厄介です。東海道の宿場に関しては師が専門なんで、手を出す気にならず。
そんなこんなで、今回は総括といったところでしょうか。
これまであげた資料それぞれがそれなりに正しく、且つまた信頼性のあるものだとします。そうした中で検証に値する地名として考えられるのは
水無瀬(古代の呼び名? 貝殻等の出土物から古代の人がつけたのだろう。それにしても「みなせ」という言葉の響きは美しいですね)
鬼無里(中世・近世で一番多く使われている名。ただし、この名が示す“鬼”が一夜山の伝説を指すのか、紅葉の伝説を指すのかは不明。ただ、成立時期を考えると一夜山の伝説が真実に近い可能性が高い)
木流しの里(多分中世かそれ以前、村名というよりは村の説明に使われたような感じのする名前。大阪で言えば天下の台所、とか。今も昔も産業は林業か農業で、特に昔はそうであっただろう。切り出した木を裾花川で流し、松代、そして木曾川を通じて中京地区に流していくというのは想像しやすいことである。当時の台帳でも残っていれば分かりやすいが、そこまでは残っていないだろう)
木那佐(上の資料にある山名。当て字の確率が極めて高い。中世・近世期の資料は文字がはっきり分からなかったか、もしくは何らかの理由で違う漢字で当て字にすることが多いので不思議ではない。が…“木”の文字は妙に気になる? 神社への寄進文書だから“鬼”の字を嫌った…というのは出来すぎな話です。今上天皇の名前じゃないんですしね。ちなみに長禄年間は室町時代の1450年代後期のこと。応仁の乱が始まってしばらく経った時期です。)
以上のような感じになります。
なお、上記の資料はその後近世・近代と続くわけですが、慶長、、元禄、天保、明治とすべて資料は鬼無里と記されている模様。中世の終わりには完全に“鬼無里”と確定したみたいですね。でも、今に至るも“鬼無里山”って存在しないんですよね。さて、これはどういうことでしょう…。
流れとしては古代の水無瀬は確定だと思います。中世に入って、その産業から“木流しの里”という村の性格が固まると「みなせ」という響きと「きながしのさと」という言葉が組み合わさって「きなさ」という読み方をするようになったと思うのです。そのときにどんな漢字を当てたのは分かりませんが…「木那佐」ならなんとなくあっているような気もしませんか?木那佐山は特定の山を指すのではなく、盆地一帯を指す、というのは考えられうる話です。
さて、“きなさ”という地名は出来たものの、鬼の字は当てられていません。一夜山の伝説の真偽はともかく、地震のような地殻変動で一夜山の辺りがいきなり隆起して鬼無里盆地をふさいでしまったのが史実だとしたら多分このときに鬼の字を当てたのでしょう(鬼がなさったこと、という感じで。駄洒落に近いですけどね)。その後、紅葉伝説の元になった史実が発生し、鬼人がいなくなった村(貴人が殺された村?)として村の呼び名“きなさ”の響きに合わせて漢字を当て、「鬼無里村」という名前が確定していったのではないかと思います。
こうして、周りは討伐した鬼のいた村として、村内では殺されてしまった紅葉がいたことを偲び伝えるために、「鬼無里」という地名が今に至るまで定着していったと私は結論付けます。結局何が真実かは分からないままなんですけど、ある程度自分自身が納得できそうな答えは見つかったのでこの『鬼無里村探訪』を終わりにしたいと思います。
最後に鬼無里支所の人たちと、これまで引用してきた資料を編纂してきた先達に感謝いたします。これだけ情熱をもって歴史を調べられる土地に、まためぐり合える日を待ちながら。
『神話や伝承の価値は、それが事実か否かよりも、どれだけ多くの人がどれだけ長い間信じてきたかにある』―――塩野七生 『ローマ人の物語1 ローマは一日にして成らず』(31ページ辺りからの引用)
by scluge
| 2005-12-14 06:00